玉の輿の意味

毎度、朝のワイドショーからのネタになるが申し訳ない。

佐渡の砂金採りとか糸魚川での翡翠探しというハナシで女性の一人が一攫千金を「タマノコシ!」と誤用していた。正確には「玉の輿」であって「玉の腰」でもない。「玉」は天下人徳川家光の側室で五代将軍となる綱吉の生母となった女性だ。「桂昌院」として権勢をふるい生類憐れみの令などに影響を与えたと云われる。

いずれにせよ男の権力や財力などによってのし上がるというのは女性を見下し卑下する言葉であることには間違いないだろう。

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みなみ あめん坊
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靖国神社・元ナンバー3が告発した「靖国が消える日」の真意 いよいよ戦没者慰霊の場でなくなる…?
【現代ビジネス】島田 裕巳 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52443

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靖国神社No.3の人物が異例の内部告発を行った。靖国は誰にも知られぬよう、またまた変質しようとしているらしい。この2、3年の間に一部の政治家の関与もあって、トップの宮司の判断だけで急速にあり方を変えようとしているという。戦前の近代日本の権威をすべて合祀することで、生き残りをはかろうというのか。しかし、それは維新の記念碑であり、明治以降の戦死・戦病死者の慰霊施設というかつての靖国神社とは似も似つかぬものなのだ。

露店の出店が中止され…

3年ほど前まで、つまりは2014年まで、東京には「みたま神社」という神社があった。

毎年夏、ちょうど新暦のお盆の頃、「みたま神社」では大規模な祭が行われた。長くまっすぐに伸びた幅の広い参道には200もの露店が並び、そこには、20歳前後の若い女性たちが、ゆかた姿や露出度の高い服装で大挙してやってきた。

若い女性がいるなら、当然、若い男性も集まってくる。東京で、これだけ若い男女が多く集まってくる祭はほかになかった。若者たちは、友だちと連れだってこの祭を訪れることを楽しみにしていた。

ところが、2015年の6月、祭を1ヵ月後に控えていた時点で、急遽、露店の出店が中止された。理由は、若者たちが夜遅くまで酒を飲んで騒ぎ、器物破損や喧嘩沙汰が絶えなかったというものだった。

祭自体は継続されたものの、露店がなければ、若者たちは集まってこない。一般の神社で、例大祭のときに、いっさい露店がなかったとしたら、果たして参拝者は来るだろうか。かくして、「みたま神社」は消滅してしまったのである。

「別の」施設に変わろうとしている

この「みたま神社」とは、もちろん、靖国神社のことである。

靖国神社では、正月や花見の時期にも露店が出ていたが、現在ではそれもなくなっている。正月に靖国神社を訪れると、初出社したサラリーマンたちが、早い時間からくり出してきて、酒宴を開いている光景を見かけたが、それも過去のことになってしまった。

露店が出ていた時代、みたままつりの期間には30万人の参拝者があった。それが2015年には半減し、16年にも14年に比べると6割減とさらに減っている。

注目されるのは、参拝者の減少とともに、昇殿参拝者や遊就館の拝観者が2016年には14年の3割近く減少していることだった。露店を目当てに来ていた参拝者も、意外と真摯な信仰や関心を抱いていたことになる。

靖国神社から露店が消えた顛末について、それを批判的な観点から述べているのが、宮澤佳廣氏の新刊『靖国神社が消える日』(小学館)である。著者が6月末に靖国神社を辞めたばかりの元禰宜であることを考えると、本のタイトルにはかなりの衝撃がある。

靖国神社では、トップに宮司がいて、次が権宮司であり、禰宜はそれに継ぐ地位である。つまり著者は、少し前まで靖国神社のNo.3であった。

いったいなぜ、みたままつりから、そして靖国神社から露店は一斉に消えてしまったのか。それは、酒による騒ぎをなくし、神社を静謐な空間に戻すためであったと理解されているが、実際には、宮司のかなり強引なやり方でことは決定されたらしい。

宮司の意向で靖国神社のなかに設置された「みたま祭調査小委員会」の報告は、祭の期間中、境内で危険ドラッグが使用され、喧嘩だけではなく、強姦まで起こっていたというものだった。

ところが、総務部長であった著者は、そんな事実についてはまったく報告を受けていなかった。どうやら、露店の中止が前提でことが進められていたらしい。

靖国神社では、トップに宮司がいて、次が権宮司であり、禰宜はそれに継ぐ地位である。つまり著者は、少し前まで靖国神社のNo.3であった。

いったいなぜ、みたままつりから、そして靖国神社から露店は一斉に消えてしまったのか。それは、酒による騒ぎをなくし、神社を静謐な空間に戻すためであったと理解されているが、実際には、宮司のかなり強引なやり方でことは決定されたらしい。

宮司の意向で靖国神社のなかに設置された「みたま祭調査小委員会」の報告は、祭の期間中、境内で危険ドラッグが使用され、喧嘩だけではなく、強姦まで起こっていたというものだった。

ところが、総務部長であった著者は、そんな事実についてはまったく報告を受けていなかった。どうやら、露店の中止が前提でことが進められていたらしい。

「討幕の志士の神社」の宮司に徳川将軍の子孫が

現在の靖国神社の宮司は徳川康久氏である。徳川という姓が示しているように、江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜の曾孫にあたる。徳川宮司は、石油会社に勤務していたものの、退職後は芝東照宮に勤務していた。東照宮は、言うまでもなく、初大将軍の家康を祭神として祀る神社である。

考えてみれば、靖国神社の宮司に徳川将軍家につらなる人物が就任するのは奇妙である。

というのも、靖国神社は、徳川幕府を打倒して明治政府を樹立した「官軍」の戦没者を祀る「東京招魂社」としてはじまったからである。

したがって、戊辰戦争で敗れた会津藩や奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍、西南戦争で死んだ西郷隆盛など、いわゆる「賊軍」は祀られていない。

徳川将軍家の場合には、大政奉還を行い、江戸城を明け渡しているので、賊軍の扱いはされず、明治時代に生まれた華族制度では、華族のなかでもっとも地位の高い公爵に列せられた。

しかし、よりによって、なぜ徳川将軍家の末裔が靖国神社の宮司なのかは、理解が難しい。

過去の権威は何でも入れてしまえ

実際、著者によれば、徳川宮司は2016年の正月、職員に対する年頭挨拶のなかで、「理念の見直しの必要性」に言及したという。未来を見据えたとき、「まず靖国神社創立の原点に返り、その理念を見直すことも必要でしょう」というのである。

この年頭挨拶でのことばが重要な意味を持つことになるのは、その年の10月12日、亀井静香元金融担当大臣や石原慎太郎元東京都知事が靖国神社を訪れ、徳川宮司に対して、賊軍とされた戦没者の合祀を申し入れたときである。

その際の申入書では、「西郷南州や江藤新平、白虎隊、新撰組などの賊軍と称された方々も、近代日本のために志を持って行動したことは、勝者・敗者の別なく認められるべきで、これらの諸霊が靖国神社に祀られていないことは誠に残念極まりないこと」だとされていた。

ただ、徳川宮司は、この申し入れに賛意を示したわけではない。それ以前に行われたインタビューでは、明白に賊軍合祀は「無理だ」と語っていた。

それでも、亀井氏が、申し入れをする前、2014年の夏に靖国神社を訪れた際、宮司に「賊軍が祀られていないのはおかしい」ということばを投げかけたところ、宮司は「私もそう思う」と答えたという。それに対して、亀井氏は「宗教法人は政府なんか関係ないんだから、ちゃんとした御祭神をお祀りしたら良いと思いますよ」と促したという。

薄れゆく「戦死・戦病死者の慰霊施設」の記憶

ここで亀井氏が、靖国神社が宗教法人であることに言及している点は重要である。宗教法人であるということは、民間の宗教団体だということである。

戦前の靖国神社は陸軍と海軍とが共同で管轄する国の施設だった。当時は、神社は一般の宗教とは区別され、宗教とは見なされていなかったため、国が管轄することが可能だった。

それが、太平洋戦争の敗戦によって、国家と神道とが結びついた「国家神道」の体制を解体することを求められ、それによって靖国神社は民間の一宗教法人となったのだった。

当初、靖国神社は官軍の戦没者を祀る神社として誕生したが、やがて日本が日清、日露戦争などの対外戦争に打って出るようになると、そうした戦争の戦没者を祀るようになり、それで国家の施設としての性格をより強く持っていった。

そうした性格を持つ施設が民間の一宗教法人になったことは、その後、さまざまな問題を生むことに結びついた。

戦没者の遺族が会員となった日本遺族会が、110万世帯の会員を抱えていた時代に、靖国神社の国家護持の運動が盛り上がったのも、その矛盾を解消するためだった。

しかし、戦後の日本国憲法では、政教分離の原則が確立され、しかも、神社もまた宗教と位置づけられるようになった。だからこそ靖国神社も宗教法人となったわけである。

その点で、国家護持は到底かなえられないことで、事実、国家護持をめざした靖国神社法案は上程されたものの、可決はされなかった。

神社にして神社に非ず、宮司が好き勝手にできる

しかも靖国神社は、単立の宗教法人で、神社界の総元締めである神社本庁の傘下にはない。徳川宮司は宮司経験があるが、A級戦犯を合祀したときの松平永芳のように神職の経験がない人物が宮司になることが多いのも、それが関係するだろう。名家の一員であるかどうかが一つの基準になっているように思われる。

そのため、靖国神社の側は、国の意向や神社界の意向をくむことなく、その方針を独自に決定することができる。

しかも、靖国神社を支える崇敬奉讃会は、戦争を経験した人間はもちろん、戦没者の遺族さえ少なくなり、その分、発言力を失ってきているようにも見える。

となれば、宮司個人の意向で、靖国神社のあり方を変えることが可能である。実際、みたままつりにおける露店の中止は、その具体的な現れであり、『靖国神社が消える日』の著者は、その点を強く危惧している。

賊軍の合祀などといったとき、それを一般の国民が判断するとすれば、それに反対する人はほとんどいないのではないだろうか。官軍と賊軍を区別しなければならないなどという感覚を持っている国民が相当数存在するとは思えない。

合祀されたA級戦犯の分祀について、靖国神社はそれは不可能だとしてきた。だが、膨大な数の戦没者を祀る靖国神社の祭祀の仕方は他に例のないもので、分祀が不可能だとは思えない。要は靖国神社の意向次第だ。別のところにA級戦犯を祀る神社を創建し、そこに遷座させるという方法なら無理なく分祀ができるだろう。

そもそも、A級戦犯は戦場で亡くなったわけではなく、靖国神社の合祀基準から外れている。昭和天皇の合祀に対する不快感も、それが関係している。

靖国神社が現在のままなら、首相の参拝も、天皇の参拝も難しい。そして、戦争を直接知る人間も消滅し、靖国神社への関心も年々薄れていく可能性がある。安部首相が退任すれば、それに拍車をかけることになる。

靖国神社の前身、東京招魂社の創建は1869年のことで、再来年、創立150周年を迎える。これを、靖国神社の将来の姿について改めて考え直す契機にするしかないのではないだろうか。

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by amenbou | 2017-08-04 09:55 | メディア | Trackback | Comments(0)