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☆彡★彡☆彡2015年3月10日★彡☆彡★彡

聖地巡礼ライジング: 熊野紀行

内田 樹/釈 徹宗 著


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東京書籍 (2015/3/4)
ISBN-10: 4487806399
ISBN-13: 978-4487806393
発売日: 2015/3/4

思想家であり武道家の内田樹と、比較宗教学者で僧侶でもある釈徹宗が、日本人が失っている霊性を再発見すべく日本各地の「聖地」を旅する新シリーズ。
第2回目は両著者とも初めてとなる紀伊半島・熊野をめぐります。
平安時代から鎌倉時代にかけて、「蟻の熊野詣」と呼ばれ、信仰を集める熊野。
いまなお日本の宗教性がむき出しとなっている聖地で内田樹・釈徹宗は何を思い、感じとったのか――。

☆彡危機のマクド、創業者は天文学的利益獲得 繁栄と没落を招いた常識逸脱の規格外経営
(c) Business Journal 2015.03.06

 日本マクドナルドホールディングス(以下、日本マクドナルド)が、昨年7月に発覚した中国食品会社の使用期限切れ鶏肉使用問題に端を発し、その後、立て続けに起こった異物混入問題で客離れを起こし、1971年7月に銀座三越(東京)に第1号店を開業して以来の未曾有の経営危機に直面している。

 日本マクドナルドの2014年12月期決算は売上高約2223億円(前期比14.6%減)、営業損益は約67億円の赤字、最終損益は当初予想の170億円を48億円も上回り、約218億円の大赤字となった。最終損益が赤字になるのは03年12月期以来、11年ぶりのことだ。ちなみにFC(フランチャイズチェーン)を加えた全店売上高は約4463億円(同11.5%減)。また店舗数は直営が1009店、FCが2084店の合計3093店であった。

 創業以来の悲惨な決算に拍車をかけたのが、今年1月の既存店売上高が前年対比38.6%減と、4割近くも落ち込んだことだ。客数も28.5%減と大幅に落ち込んだ。「マクドナルド離れ」は深刻な状況にある。この異常ともいえる落ち込みに、日本マクドナルドでは「今期の業績予想や配当は未定」として発表しなかった。

●創業者と米マクドナルド本社との怨念の対立

 マクドナルドの深刻な業績低迷の背景には、創業社長である藤田田氏と米マクドナルド本社との怨念の対立があるからだ。

 藤田田氏は04年4月、心不全で死去した。享年78。歴代6位といわれる財産491億円を残した。マクドナルドのハンバーガービジネスがいかに儲かるビジネスであるかを証明する巨額遺産である。だが、米本社にしてみれば、藤田氏の遺産の多くは同社に帰属すべきで、創業期の藤田氏との50%対50%という合弁契約が間違いであり不平等契約だと思ってきた。ここに藤田氏と米本社との怨念の対立が発生する原因がある。

 藤田氏は東京大学法学部在学中の50年(昭和25年)に高級雑貨輸出入販売店の藤田商店を設立した。GHQ(連合国軍総司令部)で通訳のアルバイトをして高給を稼ぎ、ユダヤ系軍人と親しく交流し、ビジネスネットワークを構築した。60年に株式会社に改組、社員15名の少数精鋭でスタートした。クリスチャン・ディオールのハンドバッグや旅行鞄、衣料品などの輸入販売を開始、三越など百貨店にも卸していた。

 アメリカのビジネス界で藤田氏の名前が認知されたのが、65年にアメリカンオイル(当時)からナイフとフォークを受注したことだった。第1回目は300万本、第2回目は600万本であった。業者に製造を依頼したが、2回とも納期ギリギリ。そこで藤田氏は納期を守るためボーイング707を2000万円でチャーター、儲けを度外視して製品を送り、信用第一主義を貫いた。これがアメリカで藤田氏の商人としての評価を高めた。藤田氏の成功のタネは、この時にまかれたのである。藤田商店は順調に発展し、やがてシカゴにも支店を置き、藤田氏は60年代後半には月3回もアメリカに出かけるほど多忙だった。 
 そんな藤田氏が、藤田商店のシカゴ店長の薦めで米マクドナルド創業者のレイ・クロック氏(1902~84)に会うのは70年頃のことだ。ハンバーガービジネスで大成功したクロック氏の元には、マクドナルドのFCをやりたいと多くの日本人が訪れた。その中にはダイエー創業者の中内功氏【編註:正式表記は「エ」へんに「刀」)もいたが、クロック氏の眼鏡にかなう人物はいなかった。
 
 藤田氏はクロック氏と初めて会い交渉した時の模様を、雑誌「経済界」(01年11月6日号)のインタビューで次のように答えている。

 クロック氏は「私がこれまで会ってきた日本人は商売を知らないからダメだ。けれどもお前ならできる」と、藤田氏に日本でマクドナルドのFCをやるように頼んだという。その時藤田氏はとっさに「それだったら出資比率は50%対50%の合弁でやりたい」といい、条件を1つ付け加えた。

「米国側は命令しないこと。アドバイスは受けるが命令は受けない。そして、日本の会社は私以下、全員日本人でやっていく。社長の私の思い通りにやる。それが嫌なら私はやらない」

 藤田氏の要求はめちゃくちゃなものだった。本来は米マクドナルド本社の日本FCにしかすぎない立場なのに、日本マクドナルドは米本社と折半の合弁企業とし、経営権も藤田氏が握るという主張だからだ。普通なら交渉は決裂、日本マクドナルドの設立はご破算になっていたところだ。

 ところがクロック氏は藤田氏の破格の条件を却下するどころか、受け入れた。「お前はなかなか面白い奴だ。わかった」と――。クロック氏が日本の市場を見間違っていたのか、こう言ったという。

「今から30年の契約をするが、30年で500店つくると約束してほしい。30年後に500店できていたら、成功とみなす」

 藤田氏は「500店と言わず700店にしよう」と言って、それで契約の話が決まったという。その間、ものの20分程度しかかからなかったという。

●信頼の源泉は、ボロボロに汚れた一通の預金通帳

 藤田氏はこの時、日本マクドナルドの日本でのFC展開は最初から30年契約だったと言うが、マクドナルド研究の第一人者で関西国際大学教授の王利彰氏は、「クロック氏との本来の契約期間は20年だった。藤田氏は2代目CEOのフレッド・ターナー氏(故人)に頼んで、もう10年延長してもらい、30年契約にした」と説明する。王氏は73年に日本マクドナルドに入社。店舗勤務後、スーパーバイザー、ハンバーガー大学プロフェッサー、米国駐在統括責任者などを経て本社で運営統括部長・海外運営部長・機器開発部長を兼任し、事業開発担当部長、機器開発部長を歴任した。日本マクドナルドに19年間勤め、藤田氏と衝突し92年に退社した。同年コンサルタント会社を設立し、現在に至っている。

 王氏はターナー氏とも仕事上で交流があった。当初の契約が20年だったのを10年延長してもらったというのは、王氏の言う通りだと思う。藤田氏は、一筋縄ではゆかない人だったからだ。
 余談だが、筆者も生前の藤田氏には2回、長時間インタビューしたことがある。きっかけは85年頃、「活性」(学研/すでに廃刊)というビジネス雑誌で、『銀座のユダヤ人「藤田田」(日本マクドナルド社長)研究』というタイトルで1本記事を書いたからだ。記事執筆時点では藤田氏に会えなかったので、藤田氏の出身校である旧制松江高校の名簿から同級生7~8人に面談取材や電話取材して、『証言/芽吹く商才 人生はカネやでーッ!これがなかったら何もできゃあせんよ』(同誌/85年10月発行号)を6ページで書いた。藤田氏は旧制松江高校時代、バンカラで鳴る同高校の応援団長を務めていたが、その頃の写真5~6枚を掲載、また同級生の顔写真入りで記事を構成したので、藤田氏は以後この雑誌を社長室に保管し大切にしていたという。

 これが引き金になって藤田氏が社史『日本マクドナルド20年の歩み』(91年11月発行)を出版する際、広報部の久保氏(当時)を通じて「今のままでは平凡な社史になってしまうので中村さんにインタビューしてもらって、『活性』のような藤田の青春時代をテーマに記事を書いてほしい」と頼んできた。そして91年夏ごろ、新宿住友ビル(東京)の47階だったか、日本マクドナルド本社に藤田氏を訪ね、2時間ほどインタビューした。

 藤田氏は私に、いくつか大切なことを伝えようとした。一番熱心に話したのは、藤田商店を設立した50年から「旧住友銀行新橋支店で毎月5万円の定期預金を始めたこと」だった。藤田氏はマス目に漢数字(算用数字併用)で縦書きに金額の書かれた、手垢でボロボロに汚れた一通の預金通帳を見せて、「毎月の積立額は途中から10万円、その後15万円に増額して、40年間以上にわたって一度も休まずに続けている」ことを話した。

「預金は複利で回り定期預金が1億2000万円になるのに30年かかったが、2億1157万6654円(91年4月現在)になるのに10年間しかかかっていない。今後、定期預金を続けていけば1億円増える期間がどんどん短縮する。私は長男の元(藤田商店社長)に、『この貯金は私が死んだ後も100年続けてみろ!』と言っています。親、子、孫と3代にわたって続けることになると思いますが、私のように粘り強い日本人がひとりくらいいても面白いのではないか……」(同社史より)

 藤田氏は人生が「仕事×時間=能力」であることをいち早く見抜き、「定期預金を100年続ける生き方」を提案した。そういう生き方をして、「銀行からも信用があるから、日本マクドナルドの成功がある」ということを、一番伝えたかったのだと思う。
 
 筆者はこの時のインタビューを基に、400字40枚程度で『凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり 藤田田物語』を書いた。原稿は藤田氏が目を通し、A4判横組みの社史の118~127ページに掲載された。この時400字1枚の原稿料が2万円、合計80万円ほどの多額の原稿料をもらい、びっくりしたことを覚えている。

 話を戻そう。王氏によれば、藤田氏とクロック氏との合弁契約の中身は次のようなものだ。

「日本マクドナルドの設立時は米国が50%出資、日本側は藤田氏が10%、藤田商店が40%出資した。そして売上高の1%はロイヤルティーとして米マクドナルド本社と藤田商店に支払われる仕組みだった。藤田氏の抜け目がなかったのは、藤田商店でポテトの輸入権を獲得したことです。これは店舗数が増えていった時、巨額の利益につながりました」

 こうして藤田氏は71年に銀座三越の1階にマクドナルド第1号店を開店、日商100万円を超える大繁盛店とし、あっという間にハンバーガー文化を日本中に広げた。藤田氏を一躍有名にしたのが、日本マクドナルドの大成功をバックに72年、『ユダヤの商法 世界経済を動かす』(ベストセラーズ)を出版したことだ。これが104万部というミリオンセラーになり、藤田氏はベンチャー起業家のアイドルとしてまたたく間にスターダムにのし上がった。

●創業者の死

 日本マクドナルドは軌道に乗り、破竹の勢いで店舗を増やし、外食企業トップの座に就くが、藤田氏の泣き所は事業を譲る後継者に恵まれなかったことだ。藤田氏には長男の元氏(藤田商店社長)と次男の完氏(藤田商店副社長)がいた。

「一時期、藤田氏は次男の完氏を後継者にしようとマクドナルドに入れて育てようとしたが、完氏は人使いがうまくできなかった。また、後継者にするなら米本社に出向し、いろいろ学ぶべきだと言われたが、完氏は結局アメリカに行かなかった。藤田氏も息子への後継を断念せざるを得なかったのです」(王氏)

 藤田氏はこれを機に、家族や息子たちに資産を残すために、株式の上場に踏み切るが、それに先立つ99年~01年6月頃にかけて商業施設内の小型店舖、ドライブスルー店舗などの積極展開を行い、総店舗数を01年3月末で3619店舗に増やした。上場時の株価を上げるのが一つの目的だったといわれる。

 米本社は資産流出につながるので株式公開には反対だったが、これも藤田氏が押し切った。こうして日本マクドナルドは01年7月、東京証券取引所のJASDAQ(ジャスダック)へ上場した。初値は4700円。藤田氏と藤田商店の息子2人は1420万株を売却、611億円というケタ違いの創業者利益を得た。藤田氏は最初、東証1部に上場するつもりだったが、日本マクドナルドと藤田商店との関係(ポテトの輸入権、経営指導料の支払いなど)が不明朗であるということで、ジャスダックに指定されたという。

 日本マクドナルドが上場した01年は、米本社との30年契約が更新された年でもある。藤田氏はこの際、再び30年の長期契約を結んだ。契約更改では依然として藤田商店に経営指導料が入り、直営店・FC店の売上高の0.5%がロイヤルティーとして入る仕組みだった。
 藤田氏は00年2月から130円のハンバーガーを65円で販売する「平日半額キャンペーン」を実施、01年にジャスダックに上場した時には「デフレ時代の勝ち組」ともてはやされた。だが時代は円安の平成不況に突入し、さらにBSE(牛海綿状脳症)騒動の逆風が吹き荒れ、焼き肉をはじめ深刻な「牛肉離れ」が起こった。牛肉離れはハンバーガーにも波及し、売り上げは激減した。円安の原材料高で藤田氏は02年2月には平日半額キャンペーンをやめ価格を上げたが客離れが加速した。

 藤田氏は02年3月、日本マクドナルド会長兼CEOに就任した。同年8月にはハンバーガーを130円から59円にしたが、今度はハンバーガー価格への不信を招き、02年12月期は上場以来初の赤字に転落した。そして03年3月、藤田氏は経営責任を取って会長を退任した。

 米マクドナルド本社は、藤田氏の退任後も経営指導料を払い続けていた。02年12月期も、赤字に転落したのに藤田商店に約20億円の経営指導料を払っていた。このため米マクドナルドは、03年12月、藤田商店との「経営役務契約」の解消に踏み切り、日本マクドナルドが藤田商店に解約金62億4900万円を支払った。これで藤田商店との契約を解消し、財務負担を大幅に軽減した。だが、ポテト輸入権といった藤田氏のファミリー企業である食材輸入会社デン・フジタとの取引は継続することになった。これは藤田氏がこのような契約解消の事態も想定し、藤田商店を通じ日本マクドナルドの店舗の土地を一部所有するなどして、影響力を残してきたことによる。“銀座のユダヤ商人”藤田氏は、そんな生易しい人ではなかったのである。

 米本社は藤田商店との契約を解消し、自社主導で日本マクドナルドを再構築することにした。
 
 最大の難関は、稀代の起業家(アントレプレナー)である藤田氏が30年以上かけてつくり上げてきた日本マクドナルドの経営・教育システム、企業文化などをどうするかということだった。とりわけ、藤田氏が手塩にかけて育ててきた経営幹部、店長などをどう取り扱うべきか。やり方を間違えれば、ほとんどが抵抗勢力となって、米本社のやり方に従わない可能性もあったからだ。

 そんな矢先の04年4月21日、藤田氏が心筋梗塞で死去した。藤田氏は米マクドナルド創業者のレイ・クロック氏が日本マクドナルドの合弁企業相手に選んだ人物で、日本マクドナルドを大成功させた大立者である。米本社は何よりも先に、藤田氏の社葬を開催するか、それが無理なら会社主催の偲ぶ会を開催すべきであった。ところが、米本社には藤田氏を丁重に葬送するという発想がなかったどころか、これをチャンスと見て「藤田経営の破壊」を仕掛けるのだ。
(文=中村芳平/外食ジャーナリスト)

●中村芳平(なかむら・よしへい)
外食ジャーナリスト。群馬県四万温泉生まれ。1971年、早稲田大学一文卒業。流通業界勤務などを経て、日本エディタースクール1年制昼間部時代に評論家・大隈秀夫氏の文章実習教室で学ぶ。35歳のとき、「週刊サンケイ」の記者を1年間経験。以後、フリーの雑誌記者。「夕刊フジ」に「外食ウォーズ」を足掛け6年連載。現在ネット媒体「フードスタジアム」に『新・外食ウォーズ』を連載、「日刊ゲンダイ」「週刊フラッシュ」などに寄稿している。主な著書は『笑ってまかせなはれ~グルメ杵屋社長 椋本彦之の〈人づくり〉奮闘物語』(日経BP社)、『面白いほどよくわかる 流通のすべて』(監修/日本文芸社)、『遊びをせんとや生まれけむ スポーツクラブ ルネサンス 創業会長斎藤敏一の挑戦』(東洋経済新報社)、他多数。

★彡橋下徹・大阪市長をかつての盟友・石原慎太郎が「ポピュリスト」「狡猾」と批判!
(c) LITERA 2015.03.06.

 今回の藤井聡京大大学院教授とのバトルを見てもわかるように、橋下徹・大阪市長はとにかく、自分を批判する者に対しては、その何倍も口汚い悪罵を投げつけ、あらゆる手段を使って徹底的につぶしにかかる。そうすることで、他の政敵やメディアも同時に脅し、批判を封じ込める。それが、この男の手口なのだ。

 ところが、そんな橋下市長がどんなに批判をされても、絶対に言い返さない人物がいる。ともに日本維新の会の共同代表をつとめながら、途中で袂を分かった石原慎太郎だ。

 実際、石原は維新の会を離れて以降、ことあるごとに橋下と維新の会をチクチクと批判していたが、橋下は一切反論しなかった。

 しかし、石原のほうはまだ言い足りなかったらしい。政界引退をしておとなしくなるかと思いきや、最近、「WiLL」(ワック)3月号に発表した「立国は公にあらず、私なり」という政界引退手記で、またぞろ橋下批判を展開しているのだ。

 といっても、今回のような橋下のメディアへの圧力を諌めているわけではもちろんない。石原は手記の中で、維新の会時代の恨み節を延々と書き連ねているのだ。

 石原は「私の計らいで」太陽の党と合流した日本維新の会には大きな亀裂があり、その原因は「大阪」にあったと決めつける。

「残念なことに、大阪にいる幹部たちは大阪という限られた井戸のなかに身を置いて外側の大海を見ることがなかなかできずにおり、一方、国会でのイニシアチブを握る東京側のメンバーとの間にさまざまな摩擦が介在し続けていました」

 そのうえで、矛先を共同代表だった橋下市長に向けるのだ。

「一番の問題は、橋下氏が周囲の仲間に提唱してきた『政治家はふわっとした民意に敏感に反応しなければならない』という、下手をすればポピュリズムに繋がりかねない心構えで、これが大きな政治案件に関しても、私から見れば非常に歪んだ狡猾にしか見えぬ事態を党内に生じせしめたものでした」

「ふわっとした民意に敏感に反応」「ポピュリズム」「非常に歪んだ狡猾」──。まさに橋下にぴったりの表現だが、しかし、考えてみれば、石原もまた、そのふわっとした民意に敏感に反応することで、権力を維持してきたのではなかったのか。
 大衆の劣情を煽るような差別発言を連発し、新宿歌舞伎町の浄化作戦や、青少年保護育成条例、新銀行東京や東京オリンピック誘致、東京マラソンと、目立つパフォーマンスばかりを繰り返したその姿はまさにポピュリズム政治家の典型だろう。いったいどの口で、といいたくなるが、読み進めていくと、石原の橋下に対する怒りの原因は、実はポピュリズムの部分ではなかったことがわかってくる。

 たとえば、日本維新の会が掲げた“脱原発”政策についての対立。石原はこの手記で「問題の多い日本の原発を十年後にはフェードアウトするというものでした。これは私から見れば非常に危険な党是でしかありませんでした」と言っているが、ゴリゴリの原発推進派で、核保有さえ主張する石原がこうした主張をすること自体は別段、不思議ではない。

 問題はその後だ。石原の矛先は脱原発政策の是非からその決め方に向かう。

「原発に対する根本的な認識が私から見れば欠落したまま、安倍政権が決めたUAEやトルコに対する、世界でも最も進んだ日本製原発の輸出規定に反対することになりました。しかも、その賛否を多数決で決めたのです」

「こうした国家の名誉にかかわる根本的な問題、つまり原子力そのものに対する否定に繋がりかねない国際協定への賛否は、当然、一種の文明論として討議、討論されるべきだと私は主張しましたが、『こうした問題を多数決で決めるのが維新の会の文化だ』と言って、結局、両院議員の多数決に付され、政府方針に反対することが決定されました」

 政党の意思決定としては、意見が対立したら最後は多数決で決めるのは、普通のことで、むしろ「文明論として討議すべき」というのが意味不明だが、とにかく、石原はこの“多数決”は我慢ならないらしい。

 実は、維新の会と分かれて結成した新党・次世代の党をめぐっても、石原は多数決にいちゃもんをつけている。実は、石原はこのとき、「新党大和」という党名を考えて推していたのだが、やはり多数決で「次世代の党」になってしまったらしいのだ。

「物書きの私としては、自分の書いた小説にいかなる題名をつけるかに腐心している経験からしても、新しい党の命名を多数決で決めることには大きな疑義がありました(略)いかにも素直に理解しにくい、事の説明を要する党名は結局、選挙によっても大きなマイナスになった気がしてなりません」

 文明論や文学を持ち出しているが、結局は俺に決めさせろ、というファシスト丸出しの理屈でしかないのだが、たしかに、石原は多数決にもっともなじまない政治家だった。都知事選のような直接選挙ではポピュリズム的手法によって大量の得票を集めることができるが、政党や政治家の集団を束ねたり、議会で多数派工作をすることはむしろ苦手だった。
 都知事以前の国会議員時代は自民党の弱小派閥・中川派に属し、総裁選に立候補してもたいして票の集まらない泡沫候補でしかなかった。1983年にはその中川派を引き継いでいるが、勢力を大きくするどころか、求心力を失い、派閥を消滅させてしまっている。結局、唯我独尊で根回しなど大嫌いな性格は、大衆には受けてもプロの政治家には受けないのである。

 そして、維新の会でも、次世代の党でも、看板としてかつぎあげられながら、真の意味でイニシャティブをとることはできなかった。結局、唯我独尊で根回しなんて大嫌いな石原は大衆の人気を獲得できても、プロの政治家達を取り込むことができない、政治集団を組織化する能力がないのだ。

 しかし、橋下はちがう。まがりなりにも大阪維新の会、維新の党を組織化し、常にイニシャティブを握ってきた。石原と同様のポピュリストの顔をもち、表では直情的な行動をとっているため、それだけの人間のように思えるが、実際はかなり狡猾な戦略家であり、権力者にこびへつらい取り入ることや、各政党や議員への根回し、多数派工作も平気でやってのける。
 
 たとえば、先の衆院選でも、一旦は公明党と全面対決の姿勢を示しながら、結局は裏で手を結んで、対立候補をたてるのをやめてしまった。

 そして、こういう狡猾なやり方で多数派を握った橋下が必ず口にするのが「多数決で決めたんだから従え」という理屈だ。
 
 おそらく、石原はポピュリストの部分でなく、この狡猾な戦略家の部分に我慢ならなかったのではないか。あるいは、自分にないものをもっていることに嫉妬したのかもしれない。しかも、当初はおだてられて共同代表になったものの、気がついたら、橋下の戦略で外堀を全部埋められていた。そして出てきたのが「多数決で決めた事だから」という一番大嫌いな台詞だったというわけだ。

 そういう意味では、同じタカ派、ポピュリスト政治家ではあっても、政治手腕は石原より橋下の方が一枚も二枚も上手といっていいだろう。それは同時に、石原より橋下の方がずっと危険だという意味でもある。石原は単純なファシストだから議会制民主主義下では道化にすぎなかったが、橋下は議会制民主主義を利用しながらほんとうにファシスト政治を実現する可能性がある。

 ちなみに、この石原の橋下批判が掲載された「WiLL」が発売されてから、一ヶ月が経過するが、今のところ、橋下が反論した気配はない。恫喝すれば黙らせられるような相手にしか喧嘩を売らない。これもまた、橋下の狡猾なところである。
(田部祥太)





☆彡三船美佳との離婚裁判に臨んだ高橋ジョージが“創価学会パワー”を総動員!?
(c) 日刊サイゾ~ 2015.03.08 日

 女優の三船美佳が、夫の高橋ジョージに離婚と長女の親権を求めた訴訟の第1回口頭弁論が3日、東京家裁で行われた。三船は出廷せず、生出演した夕方の報道番組『キャスト』(朝日放送)の中で「できるだけ早く、一番いい形で(離婚が成立する)そういう日を迎えられたらいいと思う」とコメントした。

 代わって三船が法廷に送り込んだのは、日本全国の弁護士約3万5,000人が加盟を義務付けられる日弁連の元副会長・若旅(わかたび)一夫氏。60代のベテラン弁護士で、これまで数多くの離婚問題を捌いてきたという。

 若旅弁護士は早速、三船が主張する高橋のモラルハラスメントを証明するために、2冊のモラハラ本を証拠として提出した。

 これに対し、高橋が伴ったのは築地伸之弁護士だった。実はこの築地弁護士、高橋が信仰する創価学会の関係弁護士で知られている人物。

 2002年の学会関係者が交際していた女性の通信記録を盗んだ事件の訴訟で、築地弁護士は学会側の弁護団の一員だった。

「池田大作氏からの信任も厚い築地氏を動かしたのだから、高橋さんも本気ということ。夫婦そろって熱心な学会信者だったのですが、どちらかというと、ガチなのは高橋さん。定期的に関連施設に通ったり、音楽仲間を勧誘したこともあったそうです。本来、学会員同士の離婚は避けるべきという教えですが、こうなっては仕方がないでしょう」とは関係者。

 メディアなどでは、三船寄りの報道が目立つが、ここから高橋は“学会パワー”を駆使して逆転できるか――。

★彡判決までには最低1年以上!? モラハラ離婚裁判を仕掛けた三船美佳の誤算とは――
(c) 日刊サイゾ~ 2015.03.07 土

 女優の三船美佳が、夫の高橋ジョージに離婚と長女の親権を求めた訴訟の第1回口頭弁論が3日、東京家裁で行われた。三船は出廷せず、火曜レギュラーを務める夕方の報道番組『キャスト』(朝日放送)に生出演。「できるだけ早く、一番いい形で(離婚が成立する)そういう日を迎えられたらいいと思う」と語った。


 確執の原因については、高橋が三船に対し「お前は人間としての価値もない」「生きていく資格もない」「お前が生きているのは、オレのおかげ」などの言葉を浴びせた“モラルハラスメント”といわれており、三船の代理人を務める若旅(わかたび)一夫氏は、証拠としてモラハラに関する本『モラル・ハラスメントのすべて 夫の支配から逃れるための実践ガイド』(講談社)、『カウンセラーが語るモラルハラスメント』(晶文社)を提出した。この2冊に書かれているモラハラと、三船の主張の類似部分をふせんで示したものとみられる。

 一方の高橋は閉廷後、マスコミの取材に応じ「(三船から)離婚の話は一切ない」と述べ、モラハラについても「心当たりがない」と従来の主張を繰り返した。新聞、週刊誌、ワイドショーではこぞって“三船派”。とりわけ、関心が高い女性誌では高橋のモラハラの異常性について特集を組むほどで、世間では「離婚やむなし」の声が圧倒的だ。

 だが、実は分が悪いのは三船のほうだという。法曹関係者明かす。

「離婚裁判で重要視されるのは、どちらかに浮気などの過失があったかどうか、別居期間が5年以上に及んでいるかどうかです。ところが今回は、共に、これといった異性問題はなく、別居期間も1年ほど。三船さんが主張するモラハラも、その言葉を発した高橋さんと受け手の三船さん温度差がある。ここは裁判所の判断も分かれるところ。判決まで、最低でも1年以上はかかりそうです」

 三船は「120%戻ることはない」と宣言しているが、高橋としては離婚をすんなり認められては、たまったものではない。「最終的には養育費や慰謝料など、金の問題になるでしょう。一方的に離婚を突きつけたのは三船さんなのだから、高橋さんに相当額の慰謝料を支払うことになるかもしれません」とは週刊誌デスク。2人の“離婚ロード”は波乱含みだ。

☆彡アウシュヴィッツ博物館初の外国人ガイド・中谷剛さん「タブーに立ち向かうのは戦争を経験していない世代」
(c) ハフィントンポスト 2015年03月04日 10時19分 JST

今年、日本は戦後70年を迎える。ヨーロッパでも、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍によって約130万人ものユダヤ人をはじめとする人々が殺害されたアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の解放から1月27日、70年が経過した。

70年について、強制収容所の跡地で虐殺(ホロコースト)の歴史を伝えているアウシュヴィッツ博物館のピオトル・ツィヴィンスキ館長は、「今年のメモリアルイヤーは、今までの記念年とは全く異なる意味を持つ」と語った。

なぜなら今年は、ホロコーストを経験したたくさんの生還者たちと祝うことができる「最後の大きなメモリアルイヤー」だと考えられているからだ。

戦争の歴史を伝える上で欠かせない存在である生還者たちが高齢化する今、歴史を伝える担い手は、戦争を経験していない世代に託されようとしている。実際、アウシュヴィッツ博物館で現在案内をしているガイドの260人全員が、戦争を経験していないという。

それでは、戦争を経験していない世代はどのように歴史と向き合い、伝えていけばいいのか。その困難と意義を、外国人として初めてアウシュヴィッツ博物館の公式ガイドに認定された中谷剛さん(49)に聞いた。
■「戦争の歴史を伝える意義」を学ぶためガイドに

――アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館のガイドになろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

1991年にポーランドに移住してからテレビや新聞でポーランド語を勉強しはじめたら、よく戦争のことが出てきたんです。アウシュヴィッツのこともよく出てきた。それまで僕は、戦争の歴史を伝えることからは疎遠だったんですよね。戦争の話なんかしたら就職するときに厄介者だと思われるからやめたほうがいいとか、そういうのが常識で。

だから、なんでポーランド人たちはこんなに一生懸命戦争の歴史を伝えようとしているのか、当時はその意味がわからなかったんです。それでアウシュヴィッツ博物館に来てみたらガイドさんたちがいて、「あ、ここのガイドになったら、戦争の歴史を伝える意義を中から教えてくれるかな」と思ったのがきっかけでした。

でも、僕がガイドになるための試験を受けたとき、アウシュヴィッツ博物館には外国人ガイドが一人もいなかったんです。だから、博物館側には「ポーランド以外のヨーロッパの国の人もいないのに、いきなりアジア人を雇うのはどうなんだ」って言った人もいたそうです。僕自身、初めて試験を受けたときはほとんど答えられなくて。だから、1回目は落ちました。当たり前ですよね。

それで2回目に受けに行ったときに、「歴史の伝え方や、どうしてそれを伝えなければならないのかがわからないので、ここで教えてもらえないですか?」と正直に言ったんですよ。そしたら、「じゃあ無理だと思うけど、やってみたら?」と情けで通してくれた。そして、「あなたは日本人にわかりやすいような案内をするように心がけなさい」と背中を押されました。だから、今でも日本人しか案内していませんし、今でもアジア人ガイドは僕1人です。
■生還者が語るとき、「何のために伝えるのか」という究極の場面に出会う

――アウシュビッツ博物館のガイドにはマニュアルはあるのでしょうか?

昔はなかったんですよ。本当、何が悪いのかわからないけど職人みたいな怖い先輩から直されて、少しずつやり方を覚えていくような感じ(笑)。僕がガイドを始めた頃は、ホロコーストの生還者が案内していたので、それをこそこそ盗み見ながら学ぶんですよね。だから、今の僕はそれを真似しているところがあります。

――生還者の方々が案内するのを見て学んだことの中には、どんなことがありましたか?

うーん......。その、淡々と話すんです。涙を流すどころか、淡々と話す。ここにまず感動して。

僕の想像だと、あの時代を思い出してすごい思いをしながら話してるのかと思ったら、淡々と話しながら、時々笑うわけですよ。にこっとしながら、冗談を言ったりもして。こんなにひどいことがあったのに、その場所に戻ってきてですよ? それにすごい惹かれてしまって。

「なんなんだ、こういうことができる人は」とか、「あー、こういう世界もあるんだ」とか思って。なんかこう、人間というものの不思議さというか、「何のために伝えるのか」という究極の場面に出会うわけですよ。だから、そういう人とは個人的に付き合って、仕事終わりに毎日駐車場でべらべら話したりしました。その経験は、今でも結構支えになっています。

――生還者が少なくなっていく中で、歴史を伝える活動にはどんな困難が出てくると思いますか?

生還者の皆さんは体験談も書いてるし、証言もなさってるし、資料はあるわけです。でも一つ問題は、戦争を経験していない僕たちの世代が資料を読んだからとか、証言を聞いたからとかで勘違いして、「わかったふり」をして伝えちゃうこと。つまり、自分がいかにも経験したように話しちゃうことです。これは危険ですよ。

なぜ危険かというと、僕も経験があるんですけど、嘘をつき始めるんですよ。訪問者の方々が聞いてくれるので、不思議と話を作っちゃうんです。僕は伝える側なので、もっと話を聞いて欲しいものなんですよね。するとどんどんエスカレートしてきて、話を誇張したりしてしまう。でも、ある部分が誇張されてしまうと、次に訴えようとする部分も完全にぶれてしまって。もう、しどろもどろになっちゃいますよね。

だから、「今ここで話してることは、誰々さんが言ったことですよ」と、必ず誰の証言に基づく話であるかを強調して説明するようにしています。
■タブーに立ち向かうのは、生還者ではなく戦争を経験していない次世代

――資料はあると言っても、やはり経験者ではないと伝えられないことはあると思いますか?

それはありますよ。やっぱり生還者の方の講演会とかで通訳をすると、全然違う。ダイレクトに話を聞くことだけでも違うし、生還者の本を読んでいても、ぎこちなさを感じさせる文章が、真実性を訴えたりする。そんなことは真似できないわけですよね。生身の人間じゃないとできない。

だから僕はもう、そこまで追いつこうという気持ちは全くないわけですよ。むしろ、役割分担だと思っています。

――役割分担とは?

僕たち戦争を経験していない世代には、アウシュヴィッツの歴史から距離があるからこそ、「じゃあこの歴史をどう理解して、どう将来につなげていこうか」というところまで議論することができると思います。直接被害を受けて痛みを受けた人は、あまりにも傷が深すぎてそこまで話を発展できないこともある。

だからこそ、今の問題にどうアウシュヴィッツの歴史をつなげて議論していくかが、戦争を経験していない僕たちの役割なんだと思います。

例えば、広島や長崎でも、体験者ではない人が史実を伝えていくプロジェクトが近々スタートするそうですが、プロジェクトに関わっている方々と話をしていて感じるのは、当時の出来事をいかに正確に伝えるかということに一生懸命になっていることなんです。これも大事なことなんですよ? ただ、一方で、それはもう不可能なんです。自分で経験してないわけですから。

僕が考えるには、これからの世代が広島や長崎の原爆被害を伝えていく目的は、今核爆弾を持っている国とか持とうとしている国についての議論を活発にしていくことであって、その部分が僕たちに求められていることだと思います。

――史実を伝えていく目的は、現代社会が抱える問題について議論するためということですか?

まずは史実というベースがなければ、議論も成り立たないわけですからね。「原爆のせいでこんなひどいことが起きた」という事実がなければ、今何を考えるべきかという議論も起きない。だから伝える必要がある。それもやっぱり被害者の名前もあげて、正確に伝えていく。

ヨーロッパにとっても、人種差別やユダヤ人問題というタブーに近い難しいテーマに立ち向かうのは、被害を受けた本人たちではなくて、次の世代なんです。広島の被曝やアウシュヴィッツの迫害の歴史を理解した上で、そこから今現在社会に山積している問題にどう立ち向かっていくのか。人種差別などといった難しい問題に、次の世代の人たちが立ち向かっていけるかどうか。ここの部分が僕たちに求められていることなんです。

だから、最近僕が案内中によく話をするのはISIL(ダーイシュ=イスラム国)の話だったり、(ダーイシュに殺害されたジャーナリストの)後藤健二さんの話だったり。ホロコーストが起きた当時、後藤さんのような人がアウシュヴィッツで繰り広げられていた出来事を世界に伝えていたら、歴史はどう変わっていただろうかとか、問題提起をするわけです。

他にも、今世界で起きてる色んなテロの問題とか、ホロコーストとイスラエルの建国、パレスチナ問題がどのように繋がっているかも重要なテーマです。
■切磋琢磨で「常識」を作っていく

とは言っても、史実を伝えて議論していく作業は「常識作り」であって、みんなでやっていかなければならないことだと思います。

――常識作り?

だって、僕は立派な人間でもないし、物事を全て正しく理解できているわけでもない。僕はみなさんにアウシュヴィッツ博物館を案内して、ここに来てくれる人たちからいい答えを聞きたいのです。それでいい答えをもらったら、次訪問する人にまたその答えを投げかけて。そうやって切磋琢磨しながら、みんなで常識を作っていくのが一番理想的だと思ってるんですよね。

だから、僕の意見を聞いて欲しいとか、僕が物事を知っていてみなさんに教えてあげるとか、そんな気は毛頭ないんですよ。僕がここでガイドとして学んだことはみなさんに提供するけど、それをもとにもっといい答えをくださいというのが僕の正直な気持ちです。

だから、ガイドをしていて一日の終わりに一番失敗したなと思うのは、「中谷さん、本当にご苦労様でした、これからも頑張ってくださいね」と言われたときなんですよ。まだ、「中谷さん、何を言ってるんだ」とか「君の発言は偏りすぎてる」とか「お礼を言いたいと思ったけど、まだもやもやしてる」とか言ってくれた方が全然よくて。

一番失敗したケースは「これからも頑張ってね」と励ますばかりで、訪問者自身が頑張ろうという気持ちが感じられないとき。そうなったときに一番疲れるし、僕の案内の出来が悪かった日です。
■「平和神話」にしがみつく日本

――ポーランドへの移住を決めたきっかけは、学生時代のヨーロッパ旅行中に出会ったポーランド人の若者だったそうですが、何が印象的だったのでしょうか?

1989年に民主化するまでポーランドは社会主義の国で、僕が旅行した当時もまだ言論の自由がなかったんです。なので、出会ったポーランド人学生たちは、僕に「お前の国はいいな」「俺たちもそういう風になりたいよ」とか言ってきたんです。

しかも、誰に聞かれてるかわからないから、こそこそ話すわけですよ。それが印象的で。そりゃあテレビでは見てましたよ。ポーランドはまだ自由のない国。言論のない国。冷戦の国。社会主義の国。イメージはあったけど、目の前にいる自分と同じ年代の学生が、こそこそと話をしなければならない立場にいるということがすごく新鮮だったんですよね。

だから、僕たちがこうやってコーヒーを飲みながら、自由に話をしてるのだって、それ自体とても価値があることなんですよね。

共産党時代のポーランドじゃなくったって、それこそ第二次世界大戦前のドイツには自由も民主主義もあったのに、ヒトラーに任せてそれを放棄していくわけです。1933年にナチス・ドイツが政権を獲得した時、彼らの得票率は約3割だったと言われています。でも、3割で十分だった。この歴史を見てると、自由や民主主義を保っているバランスが急にがくーんと崩れることがあることを知るわけですよ。

最近、ガイド中によく使うようになったのが「平和神話」という言葉です。日本にあるのは平和ボケじゃなくて、平和神話的なものなんじゃないかと思って。「今ある平和はずっと続いていくんだ」とか「平和が当たり前、崩れることはないんだ」っていう神話にしがみつこうとしている。

それで、領土問題も歴史問題もないふりをして、色んなバランスがぐらぐらしてるのに、神話的に平和だと思い込もうとする。問題があるのに、ないふりをする。その意識が日本に蔓延しているような気がして、心配なんです。

だから、政治家や外交官に任せきりにしないで、僕たちが何かこうちょっとずつ動けないか、と思っています。みんなで史実を学び、議論をして、少しずつ僕たちの世代の常識を作っていけないか、と。
中谷剛さん 神戸市県出身。1991年に医療器具メーカーの営業の仕事を辞め、ポーランドに移住。1997年に外国人として初めてアウシュヴィッツ博物館の公認ガイド資格を取得した。以来、日本人訪問者にアウシュヴィッツの歴史を伝え続けている。著書に『新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内』など。博物館案内の依頼は、中谷さんの個人サイトから可能。

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Commented by amenbou at 2015-03-10 12:06
140年の歴史を閉じるH小学校の戦後に作られた校歌が素晴らしかったので、戦前の校歌はどのようなものだったのか気になって入手した。やはりそれは予想通りの侵略戦争(八紘一宇=天皇制軍国主義)を鼓舞し、子どもらを洗脳し戦場へ駆り出す(昭和8年制定)ものだった。

①讃(たた)えよ 同胞(われら)高光る 我が天皇(すめらぎ)の大御國(おおみくに) 謳(うた)へよ同胞(われら)馨(かぐ)はしの 恵み豊けき土の郷(さと)
②源(みなもと)遠き細河の 清き流れの心以(こころも)て 揚げよ榮ある學舎(まなびや)の 譽(ほまれ)を世々(よよ)に彌(いや)高く
by amenbou | 2015-03-10 00:00 | ニュース・メディア・映画 | Trackback | Comments(1)

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