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☆彡★彡☆彡2015年4月24日★彡☆彡★彡

☆彡年寄り相手の商売で客を増やしたケーブルテレビ局? 今、問いたい“黒い”営業スタイル
(c)TOCANA 2015.04.19.

 テレビ局といえば地上波テレビ局がメジャーであり、次いでBS波やCS波を流すテレビ局が世間では知られている。しかし、このテレビ業界には地域に根ざした番組を日夜届けている“ケーブルテレビ”という存在もある。ケーブルテレビにお世話になっている人も多いかもしれないが、実は業界において近年ケーブルテレビの評判が悪い。その理由を関係者に聞いて回った。

「ケーブルテレビは以前は地元密着の番組などを作っていた上、BSやCSが見たくてもアンテナをいくつも家に置きたくない人にとってはありがたいテレビ局でした。しかし、地上波のデジタル化に伴って全国でアンテナの付け替えなどが行われた際に、評判を落としました」(テレビ局関係者)

 地デジ化に伴って評判を落としたとは、一体どういう意味なのだろうか?

「デジタル化される際には、かつてのアンテナやテレビなどの設備ではデジタル放送が見られなくなると盛んに言われました。これは正しいのですが、それに便乗したのがケーブルテレビなんです。ケーブルテレビは『テレビが今のままでは見られなくなりますが、ケーブルテレビに入れば引き続き見られます』と営業をおこなったんです。もちろん、ここにも嘘はないんですが、こうした営業によってアンテナなどを変えればタダで見られていたはずの地上波をケーブルテレビを介して有料で見る人がかなり生まれてしまったわけです」(同・テレビ局関係者)

 たしかにケーブルテレビに入れば地デジが見られるという言葉に嘘はないが「アンテナやテレビを変える方法でも見られる」という部分は隠した営業活動と言えるだろう。その結果、地上波しか見ていないのにケーブルテレビの基本料金などを取られている人も多くいるという状況らしい。

 なぜケーブルテレビはこのような営業活動をおこなったのだろうか。
「そもそもケーブルテレビはほとんど独自の番組を作りませんから、契約者数は頭打ちだったんです。そこで、情報をあまり持たないお年寄りをターゲットにして、地デジ化のタイミングで一気に営業をかけたんです。実際、契約者数はかなり伸びていますので、作戦としては成功と言えます」(同・テレビ局関係者)

 地上波のデジタル化によって“テレビが見られなくなります商法”はあらゆる場面で見られたが、こんな場所でも起こっていたとは驚きだ。無論、本当にケーブルテレビに加入したかった人やケーブルテレビがなければビル陰などによって電波を受信できないエリアに住む人もいたのかもしれない。だが、この関係者によれば、本当は他にも視聴方法があるのに営業マンに言われるがままにケーブルテレビに加入してしまったお年寄りが全国にはかなりの数いるという。ケーブルテレビはお年寄りをターゲットにせざるを得ないほどに追い込まれていたのだろうか…。

 しかし、今はお年寄りたちが料金を払ってくれているからいいが、十数年後などにその世代がいなくなったとき、ケーブルテレビはどう生き残りをはかっていくつもりなのか。テレビ局を名乗るのであれば営業だけではなく、オリジナルの番組に力を入れて欲しいものだ。
(文=吉沢ひかる)

★彡自民党の「公平」はご都合主義! 情報操作のため逆に放送法の「公平条項」撤廃を画策の過去
(c)LITERA 2015.04.17.

 自民党と安倍官邸が放送法の「公平の原則」(フェアネス・ドクトリン)をタテにテレビ局に対して執拗な圧力をかけ続けている。4月17日には自民党の情報通信戦略調査会が“I am not ABE”問題でテレビ朝日の幹部を呼びつけ、事情聴取するという異常事態にまで発展した。ちなみにこの調査会には「やらせ」問題が浮上しているNHK幹部もついでに呼ばれているが、自民党の狙いはテレビ朝日への圧力にあるというのがもっぱらの評判だ。

 政権にとって都合の悪い報道を見つけては「偏向している」と決めつけ、放送法を持ち出し、クレームをつけるというのが常套手段になっている。ところが、実は当の自民党がかつて放送法の「公平の原則」を撤廃しようとしていたことがあるのをご存知だろうか。

 2004年7月頃のことだ。自民党は直前の参院選で議席を減らし、民主党に逆転された。この年の政界は国会議員の年金未納問題がクローズアップされており、麻生太郎、中川昭一、石破茂の3人が「未納三兄弟」などと揶揄され、連日、テレビのワイドショーを賑わせていた。自民党はこうした一連の報道が選挙に影響を与えたものと分析した。

 そこで議論されたのが、なんと「公平の原則」の“徹底”ではなく“撤廃”だったというのだ。いったいどういうことなのか。同年7月20日付の毎日新聞が詳しいので引用しよう。

〈自民党が、メディアの政治的中立を定めた放送法を改正する方向で検討を始めた。同法の「政治的公平条項」を削除し、党の見解などをアピールする専用チャンネルを設けたり、特定の政治的立場にある放送局でも新規参入を認めることが狙い。8月中にも放送法改正案をまとめ、秋の臨時国会に議員立法での法案提出を目指す。公明党にも同調を呼びかける考えだ。
 自民党では昨年9月の総裁選や同11月の衆院選に対する報道への不満から、党幹部が特定のテレビ局に「出演拒否」した経緯がある。党内には今年初め、CS放送に独自のチャンネルを開設し、党の広報番組を24時間独占放送する構想も浮上した。しかし、放送法の「政治的に公平であること」(第3条の2)に違反する疑いがあり、具体化しなかった。
 しかし、参院選で獲得議席が民主党を下回ったことを受け、党内には「メディアの姿勢を批判するだけでは足りない。もっと党をPRする方法を考えるべきだ」(13日の総務会)などと、メディア戦略の見直しを求める意見が再燃。放送法自体の改正に向け、所管する総務省などと具体的な調整に入った〉

 ようは、テレビ局にいくらクレームをつけても言うことを聞かないから、この際、CS版「自民党チャンネル」のような自前の放送局をつくってしまえ、と。そのためには放送法の「公平の原則」が邪魔になるので削除しよう、という発想だ。なんとも自分勝手でご都合主義な面もあるが、実は方向性としてはある意味正しい、とも言える。

 なぜなら、いまの自民党や安倍政権が金科玉条のごとく掲げる放送法の「公平の原則」は、先進民主主義国の常識ではもはや時代遅れシロモノだからだ。
 そもそもなぜ、テレビは公平中立でなければならないのか? 現行の放送法で番組の不偏不党や政治的公平、両論併記が定められているのは、放送電波が有限で、限られた事業者にしか放送免許が与えられていないという事情がある。しかし、技術の進歩でケーブルテレビや衛星放送が始まり、デジタル技術によって100を超える多チャンネル時代に突入した現在、世の中がこんな状況になっているのに、すべてのテレビ局に「公平の原則」を押し付けるのは価値観の多様性を削ぐことになりはしないか、というのが普通の民主主義国の考えだ。

 事実、安倍晋三首相が信奉するアメリカでは1980年代に放送法の「フェアネス・ドクトリン(公平の原則)」が撤廃されている。連邦裁判所が「公平の原則」は憲法で保障された「言論の自由」を侵害すると判断したためだ。連邦通信委員会は「視聴者が多様な意見に接する機会を確保する」ためフェアネス・ドクトリンを廃止した。以後、放送局は政治的中立にとらわれることなく、独自の価値判断で報道できるようになった。ルパート・マードック率いるFOXテレビが露骨な共和党寄りの報道ができるのもこのためだ。

 安倍首相が大好きな“同盟国”のアメリカが30年以上も前に捨てた「公平の原則」を、政権批判の封じ込め、自己防衛のために振りかざすとは、極めて恥ずかしい、知的レベルの低い話である。しかも、当の自民党自身が10年以上前に撤廃しようとしたものなのだ。ところで、前述のCS版「自民党チャンネル」と放送法改正の話はいったいどうなったのか? 全国紙政治部デスクがこう解説する。

「いつの間にか沙汰やみになったと聞いています。一時はかなり盛り上がったのですが、CSといえども放送局を立ち上げるとなると莫大な資金がかかる。しかも、いったい誰が24時間放送の番組をつくるのかというところで壁にぶち当たった。結局、『自民党チャンネル』自体は、いまニコニコでやってますからね。『放送法』には手をつけず、今回のようにテレビ局への恫喝の道具に使ったほうが得だという判断なんでしょう」

 実際、この10年を振り返っただけでもテレビの政治報道は激減している。とくにワイドショー系の番組で政治ネタ、とくにスキャンダルが取り上げられることがなくなった。以前なら、ちょっと思い出すだけでも、前述の年金未納問題を始め、第一次安倍政権時代は事務所費問題、消えた年金問題などが連日のように報じられていた。それがいいのか悪いのかは別にして麻生太郎首相時代の漢字読めない問題や小沢一郎の「政治とカネ」もしつこいくらい取り上げられていた。

 それがここ最近はパッタリだ。「週刊文春」(文藝春秋)が特報した下村博文の違法政治資金問題も、「週刊ポスト」(小学館)がスッパ抜いた高市早苗の「消えた1億円」疑惑も、まったく触れようとしない。そのくせ政権与党に呼ばれればのこのこ出かけていって、頭を下げる始末だ。“アベさまのNHK”とはよく言われることだが、もはやすべてのテレビ局がアベジョンウンに忠誠を誓う北朝鮮国営放送と化してしまったと言ってもオーバーではない。
(野尻民夫)

☆彡町村議、定数割れ相次ぐ 低い報酬、若者が敬遠
(c)朝日新聞 土屋弘、井上実于、馬場由美子2015年4月19日07時05分

 統一地方選後半の町村議選で、候補者不足が深刻になっている。立候補予定者が定数に届かない自治体が相次ぎ、群馬県上野村では駆け込み的に定数削減に踏み切った。背景には議員報酬の低さや若い人が敬遠しがちといった事情があり、議会改革を探る動きも出ている。

■再選挙の危機、誘っても「仕事がある」 群馬の高山村・川場村

 9日、群馬県高山村役場で村議選(定数10)の立候補予定者の事前審査があった。だが、訪れたのは現職5、新顔1の計6陣営だけで、定数を4下回った。「再選挙になるかもしれない」。村の選挙管理委員会は慌てて準備に取りかかった。

 公職選挙法は、定数の6分の1を超える欠員が出たときは再選挙をしなければならないと定める。高山村の場合、2人以上の欠員のまま21日の告示日を迎えれば、50日以内に補充のための再選挙になる。県選管によると、「県内では首長選を含め例がないのではないか」という。

 高山村では、前回11年の村議選でも定数と同数の候補者しか立たず、無投票になった。今回はさらに深刻だ。「村民からどんな批判を受けるか」。当の議員たちも村当局も頭を抱えた。

 村では今回、多くの現職が「長いこと議員をやったから」「他の仕事が忙しいので」などと立候補の辞退を表明した。だが、後継者探しが難航し、ここに来て引退を翻意する現職も出ている。現職の一人は「体もきついので辞めるつもりだったが、区長ら地域のみなさんに連日説得されたので」。ただ、再選挙を回避できるかどうかは、なお微妙だという。

 川場村議選(定数10)でも、立候補に必要な書類を取りに来たのは9陣営にとどまっている。うち2陣営は不確実で、最悪の場合、再選挙の可能性がある。

 現職議員らが候補者探しをしているが、新顔がなかなか見つからない。若い農業者には「議員になれば経営規模を縮小しなければならなくなる」と断られた。別の男性も「仕事があり、自分は議員に向かない」と応じなかったという。

 候補者不足の理由について、村議の一人は定数削減で当選ラインが上がったことを挙げる。終戦直後の22から次第に減り、2007年から現行の10に。「以前は140~150票で当選できたが、いまの当選ラインは200票前後。それが重荷になっている」





★彡池澤夏樹の転向 - 「新聞記者、ジャーナリズムの転向から始まる」
(c) 世に倦む日々 2015-04-14 23:30

今年の朝日の憲法記念日の社説は、果たしてどのような内容になるのか、今から気を揉んで仕方がない。「安倍政権と憲法 - 平和主義の要を壊すな」と題した昨年の社説は、閣議決定による9条の解釈改憲に対して反対意見を表明したものだった。昨年のこの時期は集団的自衛権の政局の真っ最中で、マスコミ各紙の中で朝日は反対の論陣の先頭に立ち、リベラルの旗手らしく果敢にペンで戦っていた。柳澤協二や阪田雅裕などを連日紙面に出して反対世論の醸成に努め、また、石破茂と安倍晋三との鬩ぎ合いを暴露して永田町の抗争に介入するなど、一昨年の秘密保護法の攻防のときの東京新聞の活躍を思わせる獅子奮迅ぶりだった。今から思えば、編集部の中は相当な緊張状態にあったはずで、内部の右派と左派の暗闘の中で、左派がギリギリの足場で突っ張っていて、この政局の勝利に賭けていたフシがある。結局、7/1の閣議決定を阻止することはできず、朝日は政争に敗れた格好になり、右派が反動のバネで猛然と巻き返し、堰が決壊したように、1か月後の従軍慰安婦の誤報訂正の事件へと流れ込む展開になる。右派が編集部を支配し、紙面が大きく変わり、読売と全く変わらぬ編集と論調になった。その濁流がさらに勢いを増していて、とめどない朝日の右傾化となっている。

3月下旬、4月から紙面が新しくなりますという宣伝の中に、佐伯啓思がコラムを担当するという予告が何度も出ていた。1面の右に顔写真を出して大きく告知していて、嫌でも目に入ってしまう。朝日の読売化を象徴する一事であり、憂鬱に塞ぎ込んだが、見なきゃいいや、黙殺に徹しようという気分でその場を済ませていた。精神衛生に悪いから無視して忘れるにかぎる、意識するまい、話題にはするまいという処理で流した。しかし、反動右翼の巨魁たる佐伯啓思のコラム登場は、私が思っていたほど甘い事態ではないことが判明した。この佞悪な男は、戦略を携えて朝日に登壇してきたのだ。私は、単に朝日が読売色を深めるための象徴的な動きとしてこの不愉快な人事を捉えていて、つまり、佐伯啓思が邪悪な名誉欲を満足させるために朝日のコラムニストの地位を得たのだろうぐらいに軽く考えていた。そうではなく、具体的な奸計の狙いがあり、左から「憲法改正」に賛同する動機と論拠を作り、左から護憲派を切り崩す狙いで、朝日でキャンペーンを張るべく用意周到に出撃してきたのだ。狡猾で猛毒のシナリオが仕組まれていたのである。4/3の佐伯啓思のコラムと4/7の池澤夏樹の論稿は、主張としてぴったり符牒が合う。それは、朝日の読者である左派に対する「改憲のススメ」の説教に他ならない。

池澤夏樹の「左折の改憲」については、ネットですでに議論されているし、ここで論理を紹介することはしないが、簡単に言えば、自主憲法制定論の左版である。この国の憲法は占領軍に与えられたもので、だから属国の憲法であり、そのため日米安保条約で基地を押しつけられても文句を言えない。主権国家として自ら改憲して憲法を制定し直し、真の独立国となって米軍基地を国内から一掃すべきだ、という主張である。別に池澤夏樹が言い始めた説法ではなく、過去にもどこかで聞いた覚えがある節回しだ。一見、正論に聞こえるが、こういう主張を今の政治状況の中で発するということの意味を考えると、裏にある黒い思惑を疑わざるを得ないし、きわめて危険な毒性を孕んだ言説だということは、護憲の立場の者なら誰でも本能的に察知できる。このように左側に改憲の論理的拠点ができると、改憲派は右と左の両側から護憲派を挟撃することができ、護憲派を少数派の政治表象に追い込むことが容易になる。その構図が出来上がると、護憲派は頑迷で固陋なアナクロ表象へと化学変化し、政治的正当性の説得力を著しく失う状況に至る。日本人というのは、自らの原理的立場を固持することが苦手で、空気を読んで皆と合わせようとする衝動が特に強いから、少数派で孤立することを嫌い、すぐに多数派に歩み寄って混ざろうとする。

そうした日本人の心的特性を巧妙に計算し利用して、改憲派たる右翼勢力は、これまで数かぎりなく延々と、護憲派の孤立表象を演出し強調する言論工作を行ってきた。そして、リベラルと目される言論人がその動きに与し、多くは(対価を得て)意図的に、ときに意図せず、右翼の世論工作に加担し協力してきた。推測するなら、朝日の編集部の中でプログラムが組まれていて、まず佐伯啓思にアドバルーンを上げさせ、池澤夏樹にそれに続かせ、世間の反応具合を窺った上で、次に準備している裏切り系リベラル文化人を繰り出して行くという寸法なのだろう。佐伯啓思と池澤夏樹の改憲論の論旨は滑稽なほど共通していて、そのキーワードは「主権回復」である。日本は正式な主権国家ではなく、主権国家でない国の憲法には正当性がないから、改めて自前の憲法を制定し直せという議論だ。改憲派の「釣り」の論法である。釣りは釣りだけれど、それが囮の餌だと知らない若い世代も少なくないから、改憲派は朝日という絶好の釣り場で、その釣りを試してみようという計略に出た。「主権回復」論を餌にした「左折の改憲」論は、まさに転向の道具であり、護憲派の中で動揺し始めた部分を転向に引き込む誘いの理屈である。理屈そのものに目新しさはなく、効力も特にないのだけれど、「リベラル」の朝日が釣り場に編成替えされた点がこれまでと決定的に違う。

池澤夏樹はどうして転向したのだろう。客観的に見れば、それが転向であることは歴然で、憲法の遵守を願う市民を失望させる醜い裏切りであることは明白だ。まさか、金銭で買収されたということはあるまい。ここで想起するのは、丸山真男の『自己内対話』での1956年の言葉である。「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向から始まる。テーマは改憲問題」。この丸山真男の寸言は、辺見庸が2001年に連載していたサンデー毎日のエッセイで紹介され、『永遠の不服従のために』の本の中に『裏切りの季節』というタイトルで所収されている。この秀逸な小論の作品については、9年前と5年前のBlogでも論じた。60年前の過去の言葉だけれど、今日を射抜いた至高の指摘であり、丸山真男の慧眼と思想家としての普遍性に誰もが圧倒されて息を呑む。丸山真男というのは常にこうなのであり、半世紀以上前の文章を読んで目の前に立ち上がるのは、いま進行中の生々しい日本の現実政治なのだ。政治学の見地から、もう一つ、関連して丸山真男の議論を説明する必要があるだろう。この寸言をもう少し展開した論文がある。1952年の「『現実』主義の陥穽」だ。知識人の習性という問題に踏み込んで、「現実」に順応し屈服してしまいがちな知識人の内面の弱点を分析している。

「私は特に知識人特有の弱点に言及しないわけには行きません。それは何かといえば、知識人はなまじ理論を持っているだけに、しばしば自己の意図に副わない『現実』の進展に対しても、いつの間にかこれを合理化し正当化する理窟をこしらえ上げて良心を満足させてしまうということです。既成事実への屈服が屈服として意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人は、やがてこの緊張に堪えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによって埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果てしない自己欺瞞の力によって、この実質的な屈服はもはや決して屈服として受け取られず、自分の本来の立場の『発展』と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。嘗ての自由主義的ないし進歩的知識人の少なからずは、こうして日華事変を、新体制運動を、翼賛会を、大東亜共栄圏を、太平洋戦争を合理化して行きました。一たびは悲劇と言えましょう。しかし再度知識人がこの過ちを冒したら、それはもはや茶番でしかありません。私達の眼前にある再軍備問題においても、善意からにせよ悪意からにせよ、右のような先手を打つ式の危険な考え方が早くも現れています」(未来社 『現代政治の思想と行動』 旧版 P.179-180)。

この最後の一文の「再軍備」を「改憲」に置き換えたらどうだろう。丸山真男が喝破しているとおり、おそらく、池澤夏樹は改憲をめぐる緊張に堪えきれず、自分の方から先取りして、改憲を合理化する論拠を組み立て、現在と改憲後の将来の自己満足(自己正当化の安住の地)を得ようとしているのだ。これまでずっと護憲で論陣を張ってきた文化人たちは、改憲という現実を突きつけられることによって、言わば敗北を刻印され、思想的敗者の立場に立つことになる。その恐怖と焦躁と煩悶があり、精神的苦悩から逃れようとして、文化人たちは先の地平を模索するのであり、正しいことを言っていたのに負けたという屈辱を負うのではなく、自分が予想し提言したとおりになったという(予言者としての)未来の成功の境地を得ようとするのだ。丸山真男の言う知識人の心の弱さの習性とは、具体的にこういう心理メカニズムだと思われる。悪い方に転んだ現実の結果と、その悪夢を見越した上で妥協策を提言した過去が、その知識人の「正当性」を担保する形になるのだ。もし、現実に改憲がされ、改憲を支持する世論が多数になった社会に至ったときは、池澤夏樹は「先見の明のある知識人」という評価になり、左翼リベラルももっと早くから池澤夏樹の提案に即き、「積極的改憲論」(左折)に打って出ていればよかったという認識になるだろう。池澤夏樹が転向者として責められるのは、もっとずっと先の、中国との戦争が終わった後になるに違いない。

再度、丸山真男の時空を超えた寸言の呟きの前に立とう。「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向から始まる。テーマは改憲問題」。
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by amenbou | 2015-04-24 00:00 | ニュース・メディア・映画 | Trackback | Comments(0)

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